
こんにちは。アスカネットの飛鳥です。
先日、久しぶりに普段の行動範囲を少し外れて、夜のイベントに参加してきました。
決まったルートを動く普段の生活では、自分の「できること」の範囲で行動しているので、大きな困難にぶつかることはあまりありません。しかし、一歩その外に出ると、予期せぬ出来事が次々と起こります。「障害のある人間が行動するって、やっぱり大変だな」と、改めて実感することも多いです。
今回も、まさにそんな出来事が起こりました。
最終便一つ前のバス停、究極の二択
イベントが終わり、家路につくためバス停を目指したのが、夜の21時頃。やっとバス停に着き、ホッと一息ついたのも束の間、バスの接近を知らせるエンジン音が聞こえてきました。
視覚障害のある私にとって、バスが来たことは音で分かります。しかし、そのバスがどこ行きなのかは、側面の電光掲示板が見えないため、分かりません。
私が頼りにしているのは、バスのドアが開いた瞬間に流れる、「〇番、〇〇経由、〇〇行きです」という音声アナウンス。この数秒間の音声だけが、私が乗るべきバスかどうかを判断するための、唯一の情報源なのです。
その日も、いつものように「プシュー」という音でドアが開いたのが分かりました。
「聞き逃すものか」と、耳をダンボにしてアナウンスを待ちます。最終便は、たしか次の便。
これを逃すと、30分待った挙句に帰れなくなるかもしれない…。
緊張の中、聞こえてきた音声は、あまりにも短いものでした。
「10番、けん──プシュー!」
え、閉まるの!?
アナウンスの途中で、無情にもドアが閉まる音が響き渡りました。
1秒の思考と、飛び乗る勇気
交通が混雑している時なら、仕方がないと諦めることもあります。
しかし、今回は夜の時間で、記憶では次が最終便。これを逃すわけにはいきません。
「10番、けん…」という、わずか1秒ほどの音声。
その一瞬で、私の頭はフル回転します。
(10番という系統番号は把握している。問題は「けん」だ。
方向は違うから「県立中央病院」や「県庁」ではない。
このバス停から乗る方向なら、「兼六園下」か「県立図書館」のどちらかだろう。
よし、たとえ間違えても、次のバス停で降りてリセットすればいい!)
そう判断した私は、閉まりかけたドアに向かって「えいやー!」と、ほとんど勘でバスに乗り込みました。
結果として、そのバスは「10番、兼六園下経由、東部車庫行き」だったので、無事に帰りたい方向へ向かうことができました。しかし、これは単なるラッキーです。バスの電光掲示板が見える人であれば、こんな無駄なスーパーイントロクイズのような頭脳戦をする必要は一切ないのです。
なぜ、アナウンスは途中で切られたのか
バス会社の方、そして運転手の方に、心から伝えたいことがあります。
バスの音声アナウンスを、命綱のように頼りにして乗車判断をしている人間がいる、ということを。
白杖をついている人がいたら音声を聞いているのでその音声はフルに流すことを 運転手さんに 徹底してほしいです
おそらく、道路が空いていたから、早く出発したかったのでしょう。その気持ちは分かります。
しかし、そもそも、あの音声アナウンスは何のためにあるのでしょうか。
それは、私のような視覚障害者や、文字を読むのが難しい小さなお子さん、日本語の案内に不慣れな外国人の方など、視覚情報だけでは判断が難しい人のためにあるはずです。
その人たちが聞き終わる前にドアを閉めてしまうのは、アナウンスの目的そのものを無意味にしてしまう、本末転倒な行為ではないでしょうか。
どうすれば改善できるか?
私は、バス会社に一方的に文句を言いたいわけではありません。より良いサービスにするための、具体的な提案をしたいのです。
- アナウンスを最後まで流してから、ドアを閉めることを徹底してほしい。
これが最もシンプルで、確実な解決策です。 - もし時短が必要なら、アナウンスの形式を変えてほしい。
「〇番、〇〇行きです。経由は〇〇、〇〇です」のように、最も重要な行き先を先に伝える形式に統一するだけでも、私たちの判断はずっと楽になります。 - 将来的には、テクノロジーの活用を期待したい。
バスが近づくと、スマートフォンのアプリに「〇〇行きのバスが接近中」と通知が来るようなシステムがあれば、私たちはもっと安心してバスを待つことができます。
この経験から、改めて考えたこと
久しぶりに自分の「ルーチン」を外れたことで、私は改めていくつかの大切なことに気づかされました。
一つは、私自身が、こうした日常の中に潜む「リアルな体験」をもっと積極的に経験し、発信していく必要性です。
そしてもう一つは、サービスを開発・提供する側が、様々な立場の利用者を常に念頭に置くことの重要性です。特に、バスのような公共性の高いサービスにおいては、「インクルーシブ(誰も排除しない)」という考え方に基づき、企画の段階から多様な人々を巻き込みながらサービスを開発していく必要があるのだと、強く感じました。
私たち視覚障害者も、ただ「使えない」と嘆くのではなく、「こうすれば使えるようになる」という具体的な要望を、社会に伝えていく努力が必要なのかもしれません。
今回のヒヤリとした経験は、そんなことを改めて考えさせてくれる、貴重な出来事となりました。